ディープなNBA・バスケトーク+アメリカ文化

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日本の偏差値至上主義の問題

どうも。いつもはNBAアメリカ文化について語っていくこのブログですが、本日は少し違う視点で日本の教育の問題について個人的な経験とそこから見える社会の不条理を含めて考えたいと思う。きっかけとしては、先日東大前で起きた高校生2年生による刺傷事件について、個人的にも非常に考えさせられたこと、自分と少し重ねる部分もあったことからである。

 

もちろん、人を刺す、電車を放火しようとする行為は全く許されるものではなく彼が厳しく裁かれるのは当然だと思うのだが、この原因は決して彼一人の問題ではなく、日本の教育システムが学生に与えるプレッシャーと、いい学校に行くことでステータスが決まってしまう世の中を表す事象だと改めて感じた。日本の教育の問題について6つのセクションに分けて考えていくが、今回記載する内容はあくまで私の個人的な経験をベースにしており、大学まで行くことを想定した教育の内容であることをご了承頂きたい。

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<レールにしかれる学歴主義>

これについては私が小学生の時から疑問に思っているし、個人的にも経験したことだが、日本である程度知名度のある会社に就職する為には往往にして大学でフィルターがかかる。そしていわゆるいい大学=偏差値の高い大学に入るには、往々にしていい中高に行かなければ行けないとなる。私立の多い東京だと特に中学でどこにいるかが非常に重要になってきて、中高一貫を狙う場合が増える。(更に凄い人は小学校から、はたまた幼稚園から私立というケースもあるが) もちろん中学で公立に行く優秀な人材もいるのだが、教育の水準が私立と公立で大きく違ってきてしまう。そうすると私立に入れなければ行けないと考える親が多くなり、塾に行かせるわけだが、小学生で自ら塾に行きたいという人は少ないだろう。(これまた特別な学生や帰国子女などはまた別であるだろうが)

私が小学生だった時から今でも変わらず、とりあえずいい学校に行かせるのが親の目的になりがちである。

 

<塾の存在>

ここで問題になるのが、日本の受験システムと塾の存在である。特に小学校に置いて、学校の難易度と塾の難易度は雲泥の差がある。受験で出てくる問題に立ち向かう為には塾に行く必要があるのだが、まだ10歳前後の子供にはそれが大きな負担となる。私自身も小学校4年で塾に行きはじめ、学校のレベルとの違いに驚愕したと同時にどうしてこんな勉強をしなければいけないのだとものすごくストレスがかかったことを覚えている。何せストレスからやけ食いをして、野球をやりなが3か月で7キロ太ったほどである。私はとにかく塾に行く意味、塾に行かなければ受験で成功できない構造に納得がいかなかった。塾にとっては難関校の合格人数がビジネス拡大となるわけだし、別に勉強する意味などを教えてくれない。それは中学受験に限らず、高校・大学受験でも同じである。塾なんて行かなくて良い成績を出せるようになるのが本来の教育であり、根底から塾のレベルと学校教育のレベルの差を狭くすることが日本の教育で最も大きな課題の1つだと私は考えている。

 

<偏差値という物差し>

そして塾が存在する最大の理由は日本の偏差値大好きな社会にある。いい学校に行っている事がその人の価値となるというのが当たり前になっており、学校に入った後の事は一般的に大きな指標にならない。クイズ番組の高学歴芸能人などが最たる例で、偏差値の高い大学に行くことが偉いという風潮にずっとなっていると思う。メディアや周りの大人がそうやって学歴高い人を持ち上げるのであれば、視野が狭くなりがちな学生時代なんて、とにかく学校の偏差値で物事を考えてしまうことが多いはずである。親も、学校の先生も、塾もそれを人の物差しに使っているのだから。

 

私個人の話では、従弟含めて親戚に高学歴な人間が揃っていた。塾に数年行ったことで小6の時点ではそれが当たり前になってしまった私も偏差値の高い中学を狙っていた。然し受験本番で第1、第2志望で失敗してしまい、周りの親戚より偏差値の低い学校に行くことになってしまた。これが私自身のもの強烈な劣等感に繋がり、大学だけはいいとこに進学したい、皆を見返したいと超ガリ勉となるのである。中学に入ってから私の親からは特に勉強しなさい、いい大学行きなさいと強制されたことは一度もなかったのだが、偏差値という価値観でしか物事を考えられなかった私はとにかく一心不乱に突っ走しった。

 

<将来の目標を教えない日本の教育現場>

学歴至上主義に加えて、日本の教育で一番問題だと感じるのが将来どうなりたいかを教えないことである。私も無我夢中で勉強をしたのはいいが、じゃあ大学に入ってどうなりたいか、将来どういった仕事をしたいかというビジョンを全く考えていなかった。いい大学に行くのだということが最終目標になってしまい、その後の事が全く頭になかったのである。視野の狭い学生が陥りやすいこの罠を大人がちゃんと諭してあげることができればいいのだが、塾でも学校 (特に進学校) でも大学への進学が全ての目的になってしまい夢や人生の目的を教えてくれない。個人的にも中高時代の先生に将来どうなりたいのかという質問を投げかけられることなかったし、自分の友達にごく一部しか夢を持った人はいなかった。何が何でもいい大学にいくことだけが良きとされ、結局学歴が神格化されてしまうのである。

 

今回事件を起こした高校生も東大の理三に行くことだけが目標になってしまっていたのだろう。彼の学校や家庭での様子は分からないのであくまでの推測だが、本来であれば医者になることが目標でなければいけないところ、あくまでステップである東大の医学部ということだけがフォーカスになったことで必要以上のプレッシャーを自分にかけたのだと思う。東大の理三なんて本当にバケモノのような学力の人間しか入れない場所にだけ焦点を当ててしまったのは、彼も周りの人間もその後のビジョンが見えてなかったことによるだろう。医者になるには他の大学もたくさんあるわけだし、(学費はもちろん私立だとバカ高くなるが)、東大に行ったから優秀な医者になるとは限らない。そこを事前にしっかりと伝えてあげられることができなかったのは日本の社会と教育現場の責任でもあると思っている。

 

<高校3年生の実績で決まる違和感>

学歴社会の更なる違和感は、高校3年生の受験の結果で色んな事が決まってしまう点である。上述の通り、現状の新卒入社の制度では学歴でフィルターがかかることが多い。特に大企業になればなるほど学歴フィルターはかなり厳しい。然し、そのフィルターは高校3年生の時のものであり、本来であれば大学4年間で何をしたかの方が重要であるはずである。大学院に行けば最終学歴で更に上のとこに行ける可能性もあるが、4年間の大学生活だけであれば、あくまで高校生の実績が社会人で重視される。

 

また、学部についても大学入学時点で決めることは、学生にとっては負担が大きすぎると思う。大学生活を続ける中で自分はこれをしたいんだと考える機会もあるはずだが、入学後に学部を変えるとなるとかなり大変である。塾や高校が将来の目標の大事さをろくに教えてないにもかかわらず、高3の時点で学部を決めろというのは酷である。医者を目指していた人間だって、大学に入ってみて授業を受けたらやっぱり違うとなることはあるかもしれないし、より精神も成熟していく中で自分の選択肢を考えられる方が余裕を持って人生を過ごせるではないかと思う。

 

そして何より特に文系の学生は大学時代勉強を全然しなくて卒業できてしまうのはどう考えてもおかしい。せめて受験時のレベルとプレッシャーを少しでも緩め、大学でも勉強や研究をして実績を作っていく制度を形成することが必要であり、成人前の実績でその後の人生が決まってしまうのは社会の欠格であると思う。

 

<アメリカの大学から参考にできる事>

中学から大学受験に向けてまっしぐらに勉強してきた私だったが、途中からアメリカ文化に非常に興味を持ち、更に高校に入って改めて受験制度の違和感を感じたことで、アメリカの大学に行くことを決意する。親の反対など諸々あったが、運良くアメリカの大学に進学できて、無事卒業することもできた。アメリカの教育も、半端じゃない学費の高さなど色々と問題もあるが日本が参考とすべき点もある。

 

1. 公立の学校に行くのも当たり前

2. 自分の意見を発表する機会が多い (ひたすら教科書ベースで聞くことがメインの日本との違いは明確)

3. 日本の一発受験ではなく、高校自体に何をしたかを大事にし、学校の成績と成績以外のアクティビティ、センター試験のようなSATも複数回受けた中でのベストスコアを出せて、総合的な判断で合否が決まる

4. 大学入学時に学部が決まることは稀で、大学1年目や2年目で進路を決められる

5. 大学名ももちろん重要だが、それ以上に何をしていたかを評価する

 

ポイント4については、例えば医者志望の人も、学部時代は医学部である必要はなく、その後メディカルスクールに行ける。その分お金と時間はかかるが、じっくりと自分のやりたいことを考えた人間が医者を目指せることは、高校3年までに医者になることを決めなきゃいけない日本と大違いである。ちなみに、日本の医学部の質は高いかもしれないが、医師国家試験の合格率が90%なのも、高3時点の学力で進路が決められる実態を大いに表している。また、日本の進学塾のような存在はなく学校での勉強をベースにする点も大きく違う。それだけで成熟段階の学生にかかるプレッシャーを少しでも軽減できるのではないか。

 

日本の高校までの教育レベルの高さは評価されるべきであるし、現状のシステムでも。自分で考えて夢をかなえられる人もたくさんいる。然し、その人を評価する物差しとして、学歴を振りかざす社会とそれを持ちあげるメディアの体質が変わらない限り、その環境にいる教師、学生、保護者の思考は凝り固まってしまう。それは成長の時間と付随するサポートが必要な10代の人間にはものすごいストレスをかけることになり、精神的に追い詰められた受験生によって今回のような事件が繰り返えされることは十分にあり得る。

 

取り入れられる海外の考えを活かしつ、全ての人が質の高い教育を受けられ、学歴に縛られない教育システムに日本が根本的に変わることを切に願っているし、変えていかなければならないと改めて決意させられた。