偉大なるビル・ラッセルのコート外の功績と後継者達の戦い
どうも。NBAはかなりオフシーズンも落ち着いてきたとこだが、先週末ビッグニュースが流れた。NBA史上最高のWinner、いやチームスポーツ界史上最高のWinnerであるビル・ラッセルが88歳でなくなった。NBAの歴史を語る上で、ビル・ラッセルを欠かすことはできない。彼は13年間の現役で11回も優勝し、ボストン・セルティックスに繁栄をもたらすとともに、ブロックショットを用いてディフェンスに革命をもたらした。<ラッセル以前はブロックの概念自体が無かったというのはびっくりである> そんなラッセルはNBAの歴代選手ランキングでTop5であることはもちろんだが、黒人選手のパイオニアでもあることも忘れてはならならず、コート外での貢献はプレイ以上に計り知れないものがある。
そこで、今回はビル・ラッセルを筆頭に黒人の権利、差別と戦ってきた選手達に焦点を当てた特集を組みたい。過去の選手から現在までの流れを時系列的に紹介していく。
[偉大なビッグマンの戦い]
1934年に生まれたラッセルは幼い頃から当然のように人種差別を受け、University of Sanfranciscoで全米チャンピオンとなった頃でも、アウェイの試合では他の黒人チームメイトと共にホテルに宿泊することを拒否されたこともあった。
NBAドラフト時は当初セントルイス・ホークス (現アトランタ・ホークス) に指名されたが、人種差別が激しかったセントルイスに行くことになれば入団しないことも考えていたそうである。結局彼はボストン・セルティックスにトレードされたが、そのヘッドコーチが名将レッド・アワーバックであったことは運が良かった。
アワーバックは卓越したコーチであるだけでなく、白人選手であるからといって優遇することはせずにあくまで選手を実力で判断していた。<今となっては当たり前かもしれないが、当時は常に白人が優先されていた> アワーバックは1950年にNBAの歴史で最初の黒人選手をドラフトし、スターターの5人を全部黒人で出場させたのも彼が初めてであった。そしてビル・ラッセルがアメリカプロスポーツで初の黒人ヘッドコーチとなったのもアワーバックによる指示である。
ラッセルは選手として数々の栄光を成し遂げたが、コート外では引き続き戦っていた。ボストンも他の州に負けず黒人に対する差別が顕著な場所であり、NBAのスーパースターになっても黒人ということでホテルやレストランに入ることを拒否されることもあった。黒人初のヘッドコーチとなった際も、「黒人として白人選手たちをコーチすることは可能だと思うか?」といった差別的な質問も受けた。幼い頃からずっと続く差別にラッセルは心を閉ざしていき、ファンと交流することを拒んだり、黒人だから悪いことを書かれるということで、記者にも冷たい態度を取った。何故ラッセルが協力的でないかの背景を理解できない白人達からは無礼な利己的な奴だと言われた。その結果ラッセルとボストンの関係は修復不可能まで悪くなり、彼は自分の永久欠番のセレモニーの参加すら拒否したのである。その後長期に渡り双方の冷たい関係は続くが、数十年後の1999年に彼は引退後始めてボストンに戻り、その後は良好な関係を取り戻すことができた。
ビル・ラッセルが60年代最高の選手だったりとしたら、70年代のベストプレイヤーは間違いなくカリーム・アブドゥル=ジャバー (旧:ルー・アルシンダー) である。カリームはUCLAで3年連続大学チャンピオンになり、NBAで20年間プレーし、歴代最多得点を未だに保持しているいる。
皆ジョーダンやレブロンばっかに気が取られ、カリームは過小評価されているのではないかと個人的には思っている。まだトレーニングや医学が発達しきっていない70~80年代で20年間現役を続けたことは信じられない偉業であり、その内15~16年はリーグのトッププレイヤーの一人として君臨した。大学時代は彼の能力が圧倒的過ぎて試合でダンクが禁止されたほどである。ダンクができなくなったことでカリームはスカイフックを習得し、それはNBA史上最もアンストッパブルなSigniture Shotとなった。<まさに美しいの一言>
そんなカリームも、長身選手という身体的特徴だけでなく、黒人差別と生涯をかけて戦い、ファンやメディアとずっと距離を置いていたことはラッセルと似ている。しかし、カリームに関しては自分のチームメイトともキャリアの終盤まで馴染まなかったのはラッセルと違う点である。
とにかく彼は他の人と思考や態度が違い、黒人としては比較的裕福な家庭に育ち、IQも高く非常に思慮深かった。東洋の精神や瞑想に凝っていたことも他選手と一線を画していた。そんな頭の良さもあり、彼は社会の闇が読み取れ、それがカリームの内向的な態度にも影響したのではないかと考えられる。
まだUCLAにいた1968年には、メキシコオリンピックの参加を拒否し、アメリカにおける黒人差別を理由に挙げた。また1967年にはモハメド・アリのベトナム戦争徴兵拒否による王者剥奪に対しての抗議表明であるCleaveland Summitにもビル・ラッセルと一緒に参加している。
カリームはNBAは最初の6シーズンをミルウォーキー・バックスで過ごしたが、差別が激しいかつ、彼の先進的な考え方は比較的小規模都市のミルウォーキーには合わなかった。
その後LAに移籍した後も、彼はNBAのベストプレイヤーとして活躍したが、チームメイトも寄せつけず、記者達にも常に冷たい態度を取り、引き続き孤高の天才といった立ち位置であった。然しマジック・ジョンソンの影響などもあり、徐々に心を開いていき、キャリアの最後の方はその偉大なキャリアを称えられるようになった。引退後はよりメディアにも出るようになり、その思慮深さを活かして差別や宗教に関するコラムも頻繁に提供し、本も何冊も出版している。70歳を過ぎた今でも精力的に活動しており、スポーツ界でもA Voice of Reasonとして、様々な問題について啓蒙活動を行っている。
[トップ選手達のサイレンス: NB人気の高まりによる影響]
60年代はラッセル、70年代はカリームとそれぞれの時代のベストプレイヤーはActivismに積極的であったが、NBAの人気が高まるにつれて、その後の世代の選手たちが政治的・社会的な発言をする事は少なくなっていった。NBAは特に70年代に入ると、選手によるドラッグの使用が大きな問題になり、プレーの質も下がり白人客層からはダーティーなイメージを持たれるようになったことで、人気が下がり、リーグ存続の危機すらあった。
それを大きく変えたのが1979年に入団したマジック・ジョンソンとラリー・バードであり、彼らも史上最高の選手の2人だが、同時に彼らは白人を怒らせるような問題とは距離は置いてはいた。彼らの存在によりNBAはまたクリーンなイメージがついたのだが、その分あえて議論を呼ぶような行動はしなかったのである。ただし、マジックについては1991年にHIVに感染したことを発表し、HIVのスポークスパーソンとしては大きな功績を残してはいる。
また、マイケル・ジョーダンは言わずと知れたNBAを世界的スポーツとした最大の貢献者であり、バスケを全く知らない人でも彼の名前を聞いたことがない人はほとんどいないはずだ。彼はコート外でもナイキと出したAir Jordanシリーズでシューズ業界に革命を起こし、ビジネスとしてのバスケットボールを次の次元に押し上げた。1984年当時はアディダスやコンバースに大きな差をつけられていたナイキを世界最大ブランドにしたのもジョーダンがきっかけである。そんな彼も政治的発言は現役時代からつい最近までずっと控えていた。ジョーダンの出身であるノースカロライナ州の1990年の選挙では、差別的な政策を実行していた現職白人議員の対抗馬として出た黒人の候補者をジョーダンが公にサポートせずに、その理由として"Republicans buy snearkers, too" (白人の共和党員だって自分のAir Jordanを買うでしょ) といったのは有名な話である。
このジョーダンの発言はアメリカンエンターテイメントのより大きな問題を提示していると思う。NBAの大半の選手は黒人だが、彼らにお金を出すのは白人である。アリーナの観客席に座れる経済力があるのも白人が多い。つまり白人を楽しませる為に黒人が奮闘するという構図が必然的に出来上がっているのだ。リーグの人気が高まるにつれて、政治的な行為はより注目を集め、反感を買うことを恐れる対応の仕方にをする終始してしまう。どのチーム、リーグでも白人の資金力は絶対的に必要な要素である為、彼らを怒らせまいと、選手達も黙っているように言われ、何かアクションを加えようとする人には制裁が加えられていた。
例えばマイナーな選手ではあるが、デンバー・ナゲッツに所属していたマクムード・アブドゥル=ラウーフはアメリカ国旗はマイノリティーに対する抑圧を象徴していると主張し、国歌斉唱時に起立することを拒んだ。
以前から行っていた抗議ではあったが、それに気づいた記者によって理由を聞かれた際に上記の理由を挙げたことで、1996年に彼はNBAから1試合の出場停止を受けた。制裁を受けた後は、彼はやり方を変え、国家斉唱の際は立ち、顔を手で覆いながらイスラム教の祈りをすることにした。それでもアブドゥル=ラウーフは各アリーナで大きなブーイングを受けた。彼が同じ年のオフシーズンにナゲッツからトレードされたのは、スーパースターではないのに、議論を呼ぶ行動をした選手を手放したかったという意思の表れであろう。20年後にアブドゥル=ラウーフと同じように国歌斉唱時に膝をついたNFLのコリン・キャパニックがリーグから締め出されたのは記憶に新しい。(キャパニックについては下記記事参考)
[レブロンと新しい流れ]
ジョーダン引退後のトッププレイヤーである、シャキール・オニールや、コービー・ブライアント 、ティム・ダンカン等も社会的発言は基本的にしなかった。そんな中で、より自由に意見を発信するような最近の流れを作ったのは、他ならぬレブロン・ジェームズである。2003年に入団後のレブロンのコート上の業績は言うまでもないので割愛するが、彼も史上最高の選手の一人であることに異論はないだろう。そんなレブロンはコート外でも様々な所でNBAに革命をもたらしている。
まずは、NBA内でのPlayer Empowermentがあげられる。彼はチームやオーナーが選手に対して権力を持つ構図を塗り替え、トッププレイヤー達が主導権を握るようなシステムに変えていったのである。Player Emopowermentについては下記記事をご参考。
また、以前はトッププレイヤーの私生活や普段の様子はあまり知られておらず、ジョーダンやコービーもどこか謎が多い存在だったが、それを変えたのもレブロンである。SNSを使いながら、自分のワークアウトや家族と過ごすしている様子を彼は自分からどんどんと発信していき、選手とファンの距離縮める役割を担った。
自分の絶対的な選手としての地位とSNSの利用により、レブロンは2010年過ぎから社会問題についても発言・意思表明をするようになった。2012年にはフロリダ州で黒人少年のトレイボン・マーティンが近所の自衛団員であったジョージ・ジマーマンによって射殺された。マーティンは黒色のフードを被っているからというだけでジマーマンに怪しがられ、口論となり射殺された。その後ジマーマンが無罪扱いとなりすぐに釈放されたことで大きな抗議運動が全米で発生した。当時マイアミ・ヒートに所属していたレブロンは他のチームメイトと黒のフードを被って試合に登場してマーティンの死を惜しむとともに、黒人への扱いに抗議を示した。それ以外にも、黒人青年のマイケル・ブラウンやエリック・ガーナーが警察によって不当に殺された際も黒人への正義を訴えた。
また、レブロンはトランプ対しても批判をし、トランプのことをツイッターでBum (あほ) とも発言したぐらいである。
保守派ニュース局 (最近はトランプのプロバガンダ放映局) のFox Newsでアンカーをしているローラ・イングラムはレブロンに対して、スポーツ選手が政治に口出しするんじゃないと「Shut Up and Dribble」と言って攻撃したが、レブロンはそれを逆手にとりプロデューサーとして、黒人選手のSocial Actismを描いたドキュメンタリーに関わり、タイトルを皮肉たっぷりに「Shut Up and Dribble」とした。
更に、レブロンや2020年の大統領選挙の前に、黒人の投票者の増加と、以前から続く黒人投票権への抑制に対抗する運動として、「More than a Vote」キャンペーンを実施した。 (自分たちを支持しない黒人がたくさん投票すると不利になる共和党は、以前から様々な施策を使い、マイノリティが投票しづらい制度を各州で作っている)
レブロンはアスリートの中では全米の中ではTop3に入る知名度を持っており、4,500万以上のツイッターのフォロワー数がいる彼が様々な発言や行動をすることは非常に大きな影響力がある。個人的にはコービーが大好きだった為、コービー vs レブロンのライバル関係の根強さからコート上で応援することはないが、上記のActisimに加えて、2018年に恵まれない子供向けに学校を作ったりしている彼はスポーツ選手のGame Changerであり、尊敬をしている。彼に続いて今では多くの選手が様々な発言をするようになっており、今後もこの流れが更に強まっていくだろうと思う。
こうしてNBAの黒人選手達が自由を手にしてアメリカで最も給料をもらえるステータスになったのも、世の中の風潮に恐れずに社会の不条理を指摘することができるようになったのも、ビル・ラッセルというレジェンドが土台を築いたからである。彼の偉大なるキャリアを称えるとともに、数えきれない人達の将来を変えたコート外での貢献を忘れてはならない。