ディープなNBA・バスケトーク+アメリカ文化

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アスリートとプロテスト (前篇: パイオニア達)

どうも。前回の記事ではジョージ・フロイドと警察による暴力のつながりをDeep Diveして書かせて頂いたが、今回はスポーツと差別の関わり方について紹介してみたい。過去を振り返りながら記載していくので、前篇と後篇の2章に分けてまとめてみる。前篇では黒人選手によるプロテストの始まりが中心となり1970年以前の有名な選手・出来事について、後篇ではより最近の事象について、特にバスケットボール選手とのつながりを考えていきたい。

 

[ヒトラー傘下のオリンピック]

アメリカ黒人アスリートと差別の戦いは長い。古くはヒトラーが指導者であった1936年のベルリンオリンピックで4冠を達成したジェシー・オーエンズが挙げられる。ヒトラーナチスの力を世界に見せつけるために白人の実力を披露する機会として考えていた。そんな中大活躍をしたオーエンズは母国で英雄扱いを一時期的に受けたが、公民権運動の前でもあり非常に黒人に対する差別は激しかった。彼は結局黒人であるということでその後の仕事を見つけることができず、自己破産までしている。ユダヤ人中心に人種差別政策を推し進めていた当時のドイツでは声援を送られたのに、その後の自国ではひたすら冷遇を受けたのは何とも皮肉でしかない。

 

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[近代プロスポーツ初の黒人選手]

ジャッキー・ロビンソンアメリカ史上で黒人の歴史に大きな影響を与えたことをは日本でも広く知られているかと思う。有色選手 (白人も色がついているのだからこの表現はおかしいと思うが) がプレーすることが長らく禁じられていたMLBにおいて、アメリカの近代プロスポーツで初めて選手登録された黒人である。彼の機動力を中心としたプレースタイルそのものがMLBに革命を起こし新人王やMVPも獲得したが、それ以上に彼が差別を受けながらもチームメイトに対して常に紳士的に接していたことで、それ後の黒人選手に対する受け入れを加速させたことは多大な功績であると言える。ロビンソンが入団した当初は一部のチームメイトからも嫌がられたりしたが彼はその選手達に向かって暴言を吐くこともなく、他チームやファンからの差別的な発言に対しても辛抱強く耐えた。彼が一方的に攻撃を受けることで最終的にチーム内の結束が強まったと言われている。

 

彼の非暴力かつ友好的なアプローチはキング牧師に似たものがあるのかもしれない。実際にロビンソンは公民権運動にも積極的に参加し、黒人の地位の向上に努めた。声を高らかに上げなくても社会に対して抗議するということを彼は体言したのではないか。

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ジャッキー・ロビンソンMLBに入った当初を描いた映画の「42」は個人的におススメである。ブラックパンサーチャドウィック・ボーズマンがロビンソン役を演じており、彼がMLBに入る前後について描かれている。今だとNetFlixでも視聴できる。

 

[No.1アスリートによるプロテスト]

ボクシング選手といえばと聞かれたら、多くの人がモハメド・アリの名前を挙げるだろう。それだけ彼のボクシング界へのインパクトは計り知れないものがあり、他競技の垣根を越えて史上最高のアスリートの一人だと認識をされている。<多くの人は3代アスリートに、ベーブ・ルースモハメド・アリマイケル・ジョーダンを選んでいる> 彼は圧倒的なカリスマ性と頭脳で、様々な名言や相手を挑発するトラッシュトークを残してきた。そんなアリはアスリートの枠に収まらず政治的な発言も繰り返し行った。最も有名なのがベトナム戦争への抗議と徴兵拒否であろう。彼はそれ以前からマルコムXと交流を深めており、黒人差別についても積極的に意見を述べていたが、徴兵拒否となると国が黙っていなかった。彼はデビューから無敗の王者であったにも関わらず世界級ヘビー王座を剥奪され、1967年~1970年の3年と7か月という長期の間リングに上がることが許されなかった。彼は当時25歳~29歳であり、まさしく全盛期を奪われたのである。その後ベトナム戦争の状況が悪くなりアリの発言を容認する声も高まった為、復活して再度王者となる偉業を成し遂げるが、彼が正しいと思ったことをした為に払った代償は非常に大きかった。(復活して再度チャンピオンになること自体が凄まじい偉業ではあるが) 彼が黙って国に従っていればもっと選手としての功績を出せただろうという見方もあるかもしれないが、最強のアスリートでありながら政府や社会を批判することを厭わなかったことで、彼のアメリカの歴史における地位を更に高めたのではないかと思う。

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[メキシコオリンピックと隠れた英雄]

アスリートによる抗議として、アメリカの歴史上最も印象に残る場面の1つが、1968年に開催されたメキシコオリンピックの男子200M表彰式でのBlack Power Saluteであろう。競技ではアメリカの黒人選手であるトミー・スミスが優勝し、3位に同じく黒人のアメリカ選手ジョン・カーロスがなった。彼らはメダルの表彰セレモニー時に靴を脱ぎ、靴下だけで表彰台に上がることで黒人の貧困の象徴を表した。そして、アメリカ国歌が流れ始めるとともに、スミスとカーロスの2人は拳を突き上げた。この拳を天に向ける行動は、黒人が黒人であることににプライドを持ち、人種差別に抵抗するという意味を持つBlack Power Saluteであった。<ちなみに、68年は丁度公民権運動が終わりを迎えているころであり、オリンピックの半年前にキング牧師は暗殺されていた>

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左から銀メダルのピーター・ノーマン、金メダルのトミー・スミス、銅メダルのジョン・カーロス

この行為は世界中の注目の的となり、オリンピック委員会のIOCからは非政治的な場であるはずのオリンピックでのプロテスト運動は許されないと公然と批判を受け、スミスとカーロスは選手村からも追放された。アメリカに帰国後も2人への批判は続き、彼らは引き続き短距離の選手やNFL選手として競技を続けたが、世間からの冷遇を受け続け、家族への脅迫等も絶えなかった。今となっては黒人差別に対抗するシンボルとして語り継がれており、彼らへの世の中の目も大きく変わったが (社会が適応したという方が正しいか)、モハメド・アリと同じく彼らが現役時代の絶頂期を犠牲にしたといえる。ヒーローとして迎えられるべきが、過酷な人生を送ることになったスミスとカーロスだが、彼らは自分達が決断したことに間違いはないというスタンスを変えなかった。

 

Black Power Saluteの件に関しては前述の2人のみ語られることが多いが、銀メダルを取った白人のオーストラリア選手のピーター・ノーマンについても忘れてはならない。ノーマンはオーストラリア新記録のタイムを残して3位のカーロスを僅かながら上回った。ノーマンは事前にスミスとカーロスから表彰式で行う抗議運動について相談され、快く協力すると伝えた。そして2人が持っていた"Olympic project for human rights"という人権を尊重しようというメッセージのバッジを一緒につけて表彰式に立つことを快諾した。また、その際ブラック色のグラブ (手袋) がスミスの分しかなかったのが、それをカーロスと2人でそれぞれ片方の手でシェアするように促したのもノーマンであった。

ここまでアメリカの差別のみ述べていたが、オーストラリアでも当時White Australian Policy (白豪主義という南アフリカアパルトヘイトのような白人至上政策を取っていた。<アボリジニー等の先住民族に対する大っぴらな差別である> そんな中でノーマンが取った行動はオーストラリア内で大きな批判を受け、彼は次の1972年オリンピックの選考で何度も代表に見合うタイムを残したにも関わらず、国の代表メンバーに選ばれなかった。本来であればオーストラリア最高の記録を残して英雄扱いをうけるべきなのにだ。その後も彼は安定した職業に就くことができず毎日の生活を送るのがやっとのような波乱万丈の生涯を送った。しかも2000年に自国で開かれたシドニーオリンピックで、聖火ランナーすら務めることができなかった。彼は2006年に亡くなったが、その6年後の2012年にやっとオーストラリア議会から、彼に対する何十年にも渡る不当な扱いへの謝罪が行われた。あまりにも遅すぎる謝罪であったといえる。ノーマンの葬式には共に歴史的瞬間を作ったスミスとカーロスも参加した。

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ノーマンの葬式にてスミスとカーロスの2人

ノーマンが真の意味でヒーローであった理由としては、自分が1968年に黒人選手2人をサポートしたことについて、正しい行いをしたまでと生涯をかけて主張していたことだろう。ノーマンが公に2人への批判や、間違ったことをしたと発言したら、彼は苦しい生活から解放されていただろう。(実際にそういった取引の話がもちかけられたそうだ) それでもノーマンは自分の意思を曲げることを一度もしなかった。更に晩年、表彰式の光景を銅像にするという話がスミスとカーロスの母校であるサンノゼ州立大学で挙がった際も、自分はあくまでオーストラリア人として協力しただけであり、アメリカでの銅像には彼ら2人のみがいるべきだと伝え、自分自身の銅像が建てられることを拒否した。果たして世の中の何割の人がそんなことができるだろうか。

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銀メダルの位置には空いたままとなっている

 

本日紹介したパイオニア達はあくまで一部の有名な選手たちであり、全く名前が知られていないところで差別と闘っている人たちはたくさんいる。そういった一人一人がヒーローであり、国や人種に関係なく活動をしている。この記事を書きながら、決してアメリカの黒人でなくても、学ぶこと、できることはたくさんあるのだと改めて考えさせられた。