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ジェームズ・ハーデンとNBAプレイヤーの持つ力 (前篇: 2010年以前)

どうも。前回はトランプやアメリカの情勢に関するシリアスなトピックとなったが、今回はNBAにおける超重要な話題、ジェームズ・ハーデンのブルックリン・ネッツへのトレードについて触れてみたい。

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また同時に今回のトレードはハーデンのトレードリクエストのやり方に色々と焦点が集まったが、ここ数年NBAで叫ばれているPlayer Empowerment (以前は、オーナーやチームが選手を好きなようにトレードしたりしていたが、最近は選手が主導権を握り、自分達の行きたい場所に移籍できるように仕掛ける動き) の新たな形と言えると思う。そこでこの記事ではこれまでのPlayer Empowermentの大まかな歴史 (細かい動きはカットしているのでご了承頂きたい) と、そのターニングポイントを絡めながらハーデンのトレードの全貌について考えていきたい。情報量が多くなってしまう為、前篇と後篇に分けて投稿をし、前篇はPlayer Emopowermentが本格化する前の歴史的側面について記載する。

 

1. NBA繁栄前のPlayer Empowerment

NBAプレイヤーがチームと契約中でありながら、トレードをリクエストすること自体は今にはじまったことではない。著名な選手で見ていくと、NBA史上最高の得点王カリーム・アブドゥル・ジャバーが挙げられる。カリームは所属していたミルウォーキー・バックスから1975年にトレードをリクエストしたのだ。(カリーム以前にもウィルト・チェンバレンがオーナとの対立からトレードを要求したが、対立関係なくトレードリクエストをした有力選手はカリームが初めてと言われている) 彼はバックスで既にチャンピオンにもなり、MVPも複数回選ばれ、NBAナンバーワンの選手となっていたが、ミルウォーキーという町自体が黒人や彼の信仰していたイスラム教に寛容でなかったという理由で大都市のニューヨークやロサンゼルスへのトレードを要求したのだ。これはカリームという思慮深い人間、70年代という時代背景の影響も大きかったという点で独特である。LAレイカーズ移籍後はマジック・ジョンソンがドラフトで入団するという幸運にも恵まれ、彼はその後5回優勝を獲得している。

カリームの黒人文化・問題へのinvolvmentと影響力については以前の記事をご参考頂きたい。

atsukobe.hatenablog.com

 

2. 90年代から増えてくるプレイヤーのパワー

カリームが移籍した70年代はまだまだNBAの人気がない時代であり、選手も力がなければ、チームも財力がなかった。その後70年代後半のジュリアス・アービングの登場から、80年代のマジック、バード、90年代のジョーダンによって、NBAの人気が非常に高まったと同時に選手も少しずつ力を持つようになっていく。有名なところでは、スーパースターのチャールズ・バークレーが万年NBAファイナルの進出の可能性がなく、92年にプレイオフを逃したばかりの、フィラデルフィア・セブンティーシクサーズから、優勝を狙えるチームへのトレードを要求し、フェニックス・サンズへ移籍をした。その年のサンズはリーグ最高の勝率を逃し、バークレーはMVPを獲得しただけでなく、唯一のNBAファイナルに進出しており、移籍は成功したと言えるだろう。

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NBAファイナルでジョーダンと対戦するバークレー

90年代は、スーパースターだけでなく、若い選手の要求が目立つようになっていく。チームメイトのラリー・ジョンソンとのエゴの衝突から、3年目終了後のオフシーズンにシャーロット・ホーネッツから移籍を要求したアロンゾ・モーニングコーチであるドン・ネルソンと馬が合わず、ルーキーシーズン後にトレードされたクリス・ウェバー、チームメイトのケビン・ガーネットが史上最高額の契約を結んだことに嫉妬したステファン・マーブリー等々が有名な話である。

 

この時代で面白い事例が1999年のドラフトで、当時のバンクーバーグリズリーズに指名された、ティーブ・フランシスである。テネシー出身の彼は、カナダの事を知らない、バンクーバーがものすごい寒いと思っていたなどの理由で、グリズリーズに入団すること拒否し、交渉の末シーズン開始前にヒューストン・ロケッツにトレードされている。入団前に拒否権を行使するのは、なんだかんだ日本のプロ野球のドラフトに近いのではないか。

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引退してからも色々苦労があったフランシス

 ロケッツで新人王も獲得したフランシスだが、その後のプロ生活は順風満帆とはいかなかった。上述のモーニングは病気、ウェバーはケガ、マーブリーはプレイスタイル等の問題で、皆ポテンシャルを出し切れなかった共通点があるのは面白い。

 

2000年代に入って、最も今のPlayer Empowermentに近い動きをしたのが、ヴィンス・カーターである。98年に入団したカーターは、カナダ史上初のNBAチームであるトロント・ラプターズを盛り上げる事に大いに貢献し、最高級のダンクの連発により、Air Canadaと呼ばれ、NBAでもトップクラスの人気を誇っていた。最初の数シーズンは飛ぶ鳥勢いの活躍を見せたが、その後はケガが重なりプレイオフでも成功を収められていなかった。また、マネージメントへの不満を溜めていた彼は、しばらくするとトレードを希望するだけでなく、どんどんとやる気をなくしたプレーを見せるようになっていく。そんなプレーぶりから、ラプターズファンからは、ケガをフェイクしているのではないかとまで言われていた。実際に、ラプターズで最後にプレーした2004年の成績と、シーズン途中で移籍するニュージャージー・ネッツでの成績を見ると明らかに彼が手を抜いていたことがわかる。ラプターズで平均15.9得点だったのが、ネッツ移籍後に27.5点になり、FG、3Pt、フリスロー全ての確率が5%以上上がっており、確実に移籍後やる気を取り戻したと言われておかしくない。ラプターズファンからずーと嫌われていた理由が分かる。

ヴィンスの22年に渡る選手歴については以前記事にまとめたので、是非お読み頂きたい!

atsukobe.hatenablog.com

 

3. レブロンが完全に流れを変える

NBAスター達がパワーを持ってきたとはいえ、2010年頃まではあくまでチーム側が主導権を握っていることが多かった。プレイヤーはチームの従うまでにトレードをされたり、チームやファンが選手にはロイヤリティを求めるのに、彼らにはロイヤリティが与えられていなかった。この構造を真っ向から変えたのが、泣く子も黙るスーパースター、レブロン・ジェームズである。レブロン自身がトレードを要求したことはないのだが、彼は自分が持つ選手としての価値を利用し、チームにコミットすることをせずに、自分が行きたいチームにはいつでもいけるんだぞというスタンスを取るようになる。これの最たる例が2010年のいわゆる、"Decision"である。

 

このDecisionからの10年間の動きは、後篇に続きます。