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ヴィンス・カーター引退 - NBA史上ベストダンカー <NBA選手名鑑>

どうも。先日NBAで最高齢だったヴィンス・カーターが引退することを正式に発表した。22年というNBA史上最長のキャリアに幕を閉じることになり、90年代から活躍していた選手がいなくなったことに若干悲しさを感じる。

ヴィンスがNBAのキャリアをスタートをしたころは、ネクスマイケル・ジョーダンとしてコービーやダークぐらいの偉大な選手になる可能性 (歴代Top20~30) があると予想されていたが、正直そのレベルには達しなかった。しかし、スター選手からロールプレイヤーという転身を見事にまで成し遂げ、身体能力が特徴の選手でありながら20年以上も現役を続けたという、非常に興味深いキャリアであることは間違いない。そこで今回はそんなヴィンスの複雑なキャリアについて、功績と惜しまれる点のそれぞれから振り返ってみたいと思う。

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[ヴィンス・カーターの功績]

 1. とりあえず歴代最高のダンカーであること

ヴィンス・カーターを語る上でダンクを欠かすことはできない。彼の前にも後にも素晴らしいダンカーは何人もいるが、彼ほどバリエーションがあり、跳躍力とパワーを兼ね添えたダンクアーティストはいない。ヴィンスはマイケル・ジョーダン (紹介不要:愛称Air) の空中での美しさと、ドミニク・ウィルキンス (80年代にアトランタ・ホークスで活躍した名選手かつ史上最高のパワーダンカー) の力強さを合わせたダンカーである。片足でも両足でも最高のダンクを繰り出し (意外と両方できる人は少ない)、ウィンドミルから360、リバース、フェイシャルダンクまでなんでも繰り出すことができる。

 ヴィンスが出場した2000年のスラムダンクコンテストは史上最高のパフォーマンスとして20年経った今でも語り継がれている。この大会自体はNBAの歴史の中でも非常に重要な役割を果たしている。ダンクコンテスト1984年からNBAで開始し、オールスターのメインイベントの1つとなっていたが、97年にコービーが優勝した時は、各出場者によるクリエイティビティが無くなってきており、過去のコンテストと同じようなダンクが繰り返され、80年代のジョーダンやドミニクのようなスター選手の出場も少なくなっていた。それによって人気も下降線を辿り98年のオールスターではダンクコンテストがなくなるまでになった。98年にリーグに入ったヴィンスはルーキーから強烈なダンクを試合で見せ、2年目には既に人気選手となっていた。そんな中2000年のオールスターではダンクコンテストが復活することが決まり、ヴィンスも出場することにした為、開催前から大きな話題となっていた。ファンや関係者からダンクコンテストの復活への大きな期待がかかった大会で、彼は圧倒的なパフォーマンスを披露し、観客の度肝を抜いた。最近はダンクのレベルも高くなり、単純な難易度でいえばヴィンスの披露したダンク以上のものはあるとは思うが、歴史的なインパクトを考えた際に、彼の披露したダンクは一番であると考えらえる。

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ちなみに有名ではあるが、彼が試合の中で放った最高のダンクは、アメリカ代表として出場した2000年のシドニーオリンピックの対フランス戦で起こった。なんといったって、メダルをかけるような真剣試合の試合中に2メートル18センチの巨人をかすることもなく飛び越えたのである。彼のニックネームであるHalf Man Half Amazing (半分人間、半分驚き) を象徴するダンクとなっている。

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埋め込み動画が禁止されているみたいなので、下記リンクからどうぞ

https://www.youtube.com/watch?v=WihbbVEmppI

 

2. カナダのバスケ人気を押し上げた

ヴィンス・カーターは様々なチームでプレイしたが、誰もが最も印象に残っているのは最初のチームであるトロント・ラプターズと言うだろう。後述するが、トロントとヴィンスの関係は複雑であり、圧倒的な人気からの裏切り者扱い、キャリア終盤の和解といったドラマがあったが、トロントとカナダにおけるNBAの人気を高めたのはヴィンスの貢献に他ならない。

95年にバンクーバーグリズリーズ (現メンフィス・グリズリーズ)とトロント・ラプターズはカナダで初のNBAチームとして誕生した。エクスパンションチームであり戦力も弱かった為、最初の数年はラプターズの人気は高まりきっていなかった。そこに1998年に登場したのがヴィンスである。彼はルーキーからエキサイティングなプレーを連発しすぐにファンの心を掴む。2年目には平均得点を25点まで伸ばし、オールラウンダー力も活かし、チーム史上初のプレイオフまで進んだ。ヴィンスの活躍もあり、ラプターズの人気は上がっていき、アイスホッケーの一人勝ちだったカナダスポーツの流れを変えることに成功した。今ではトロントは最も熱狂的なファンを抱え、ホームコートアドバンテージを象徴するチームの1つとなっている。アンドリュー・ウィギンズはじめカナダ出身の選手も今では多く活躍しており、ヴィンスが彼らにとってのジョーダンのような存在だったと言っている。数年前には彼のカナダへの影響を綴ったドキュメンタリーである"The Carter Effect"も作成されており、ネットフリックスで見ることができるので是非見てみてもらいたい。

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3. スター選手からロールプレイヤーへのスムーズな転身

スターを一度経験した選手の中で、控えになることや自分の役割が減ることを受け入れることができる人は少ない。最近で言えば、アレン・アイバーソンカーメロ・アンソニーも自分が全盛期でないことは分かりつつも、ベンチプレイヤーとなることや自分中心のチームでなくなることにアジャストしきれずに、早い段階でリーグから締め出される形となってしまった。(カーメロについては1年経って復帰することができたが) ヴィンス・カーターも入団した1998年から少なくとも2008年頃までの10年間は紛れもなくスター選手の一人であった。2009年にオーランド・マジックにトレードされた後は、最後のチームのアトランタ・ホークスまでの残りの12年間を合計6チームで過ごすことになり、全盛期の身体能力は落ちたが、シュート力と頭脳を使ったプレイスタイルに変更し、どのチームでも重宝されるロールプレイヤーとなった。2012年頃からはほぼベンチからの出場が中心となったが不満を言うことはなく、自分がスター選手でないことを認め、チームの貢献に努めた。オールスターのファン投票で1位を数回獲得したことがあるほどの人気選手がこれほどうまくベンチプレイヤーになることができた例は過去にはほとんどないと思う。彼は自分のプレイスタイルをアジャストすることでリーグでの居場所を確保し続け、22年という過去最高の現役期間を過ごしたのは、今後のスター選手も見習うべきことがあるはずだ。もちろん運動神経が衰えたといっても、もともと超人レベルな為、40歳でもこんなダンクができているのだが。。。

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[ヴィンス・カーターのキャリアを複雑にする点]

1. 期待されたポテンシャルをフルに発揮しなかった

前述した通りヴィンスはルーキー時から活躍し、平均18得点で新人王と取った。2年目には平均25.7得点、3年目には平均27.6得点まで伸ばしたが、彼のキャリアベストの平均得点はここで留まった。(もちろん得点だけが全てでないが) 身体能力の高さから繰り出さるダンクやレイアップだけでなく、シュート力も高く3ポイントも2年目と3年目は40%を超えていた。ディフェンスは決してトップレベルではなかったが、パス能力もありチームメイトのセットアップもできた。当時の若手スター選手だった、アレン・アイバーソンやコービー、レイ・アレン、ポール・ピアースといった選手達と並ぶレベルと考えられていたことは間違いなく、その華麗なダンクからネクストジョーダンの筆頭候補とも言われた。然し4年目からはは少しずつケガも増え、やる気も抜けてしまったかのようなプレーが見られた。ニュージャージー・ネッツに移籍後もスター選手としてのプレーはしていたが、本当のスーパースターと言えるまではいかなかった。彼の従弟で97年に入団したトレイシー・マグレディラプターズではヴィンスのNo.2だったが、マジックに移籍後の2003年頃にはヴィンスより確実に上の立ち位置となった。リーグに入った数年後から選手としての大きな進歩が見られなかったのは、ケガの影響ももちろんあると思うが、コービーやレブロンのようなハングリー精神が少し欠けていたことは否めない。歴代選手ランキングでTop100には入るとは考えられるが、Top50ではないというのが個人的な印象である。入団当初の活躍を考えると少し残念ではある。(Top100でも十分すごいのだが) 

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お互いの活躍の嫉妬から一時不仲になったと言われるヴィンスとトレイシー

2. ラプターズ所属時の後半はやる気が見られなかった

先程も少し触れたが、ラプターズでプレーした後半はヴィンスは明らかにやる気がなくなっており、トレードを要求しているかのように見えた。ケガの影響もあり彼の成績は下降気味となり、徐々にラプターズファンの間でもフラストレーションが溜まるようになる。チームもヴィンスの3年目の2001年にプレイオフに進出した後は弱いままであり、彼の周りを固める補強がしきれていないラプターズ経営陣への不満も口にするようになっていった。そして2004年に正式にトレードの要求をし、歴代屈指のポイントガードジェイソン・キッドのいるニュージャージ・ネッツに移籍した。ラプターズ最後の2004年シーズンの途中まで過去最低レベルの成績だったのに、ネッツに移籍した途端やる気を取り戻してまた平均27点を超える活躍したこともラプターズファンの反感を買った。その後ラプターズの試合に戻ってくる度にヴィンスはブーイングを浴び続けたが、彼は元チームに対して好結果は残し続けて、トロントでゲームウィナーを2回成功させたりもしている。

- ヴィンスがトロントに戻ってきた最初の試合のブーイングの嵐はこちらから-

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精神的なタフさが欠けていると言われていた彼だが、決してそうではなく、チームを引っ張るリーダータイプではなかっただけなのかもしれない。その後も10年近くブーイングを浴び続けたが、キャリア終盤になった5年ほど前にようやく仲直りの意味のトリビュートがラプターズで行われて、今ではファンもチームもヴィンスのトロントへの功績を称えるようになっている。

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3. プレイオフでの成功がなかった

ヴィンス・カーターは入団2年目と3年目にラプターズでプレイオフに進出し、特に3年目のカンファレンスセミファイナルでの、アイバーソン率いるフィラデルフィアシクサーズとの死闘は今でも語り継がれている。第7戦までもつれたこのシリーズでは、その年のリーグMVPのアイバーソンとヴィンスの点取り合戦が話題になっていた。そんな白熱した戦いの中の第7戦の朝にヴィンスは、母校のノースカロライナ大学の卒業式に参加することを決める。大学3年終了後にプロとなった彼は、親との約束を果たすためにその後も地道に勉強を続け、卒業資格を得たのである。運の悪いことにその卒業式が彼のキャリアで最も大事なプレイオフの試合と被ってしまったのである。昼過ぎまでノースカロライナで卒業式に参加し、飛行機で夕方のフィラデルフィアに戻るという強硬スケジュールについて、試合前からラプターズのチームメイトは反対していた。過酷な移動もあってか、第7戦でヴィンスは思うような活躍ができなかったが、終盤まで接戦となり、1点差で負けていたラプターズは最後のチャンスをヴィンスに託した。しかし、彼はその期待に応えることができず、彼のジャンプショットは僅かにリムからずれて、ラプターズは敗退した。試合前からヴィンスに対する批判が高まっていた中、決勝シュートを外したことで勝負弱いというイメージがついてしまった。卒業式に行く判断が正しいか否かについてはそれぞれの価値観ではあると思うが、批判を掻き消すだけの活躍が出来なかったことは彼の心残りでもあるだろう。

- 第7戦のハイライトは下記動画から-

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その後ラプターズではプレイオフに進出できず、ネッツに移籍した後も3年連続プレイオフに出るが、カンファレンスセミファイナルどまりであった。オーランド・マジックに2009年に移籍した際は既にスター選手ではなくなっており、ここでもカンファレンスファイナルで敗れている。個人成績だけ見れば決して悪くない数字であるのだが、勝ち負けで判断されるのがスポーツである以上、NBAファイナルまで行けなかったことはヴィンスのステータスを高めきれない確実な要因ではある。

 

ヴィンスの22年間のNBAキャリアは、栄光に溢れた初期の4~5年と、失望と平凡な結果が続いた10年前後、誰もから愛される存在となったキャリア終盤の5~7年前後とアップダウンが多かった。ファンやコラムニストが求めていた史上最高の選手の一人にはなれなかったが、ある意味非常に人間味の溢れる現役生活ではあったのではないか。そして何より彼が紛れもなく歴代ベストダンカーであることはこれからもずっとNBAファンの記憶に残っていくだろう。ここ数年はNBA番組やポッドキャストに出演しており、今後は解説者やコメンテーターとして活躍していくことに期待している。